今月の言葉
今月の特集
 

2009年9月 宗祖親鸞聖人七百五十回ご遠忌お待ち受け
「教えにかなったお内佛(佛壇)のお給仕をしよう! その7」


形あるものを(お佛壇)拝むのは偶像崇拝ではないか?
 河村とし子という、クリスチャンからお念佛の教え、浄土真宗に転向されたお方がおられます。
このお方は、熱心なクリスチャンの家庭に生まれ育たれました。それが不思議なご縁あって、浄土真宗の熱心な家庭に嫁がれました。ご両親は(養父母)は、おおきなお内佛の前で、朝晩ていねいにお勤めされていました。

 キリスト教では形あるものを拝むような偶像崇拝は禁止されています。偶像を拝むような宗教は程度が低いと教えられていました。ですから河村さんは、「大きな金ピカの仏壇を拝み、何やらわけの分からないお勤めをしている両親を気の毒な人たち」と、みておられたようです。このご両親に何とかキリストさんの教えを、聞かしたいものと機会あるごとに勤められました。ご両親は、そのつど熱心にお話を聞いてくださるし、反発されるような姿は全くなかったそうです。

 そんな頃、あるきっかけで佛法を聴聞するようになられます。ある時「今日まで自分で生きて、自分で求めて、自分で苦労していると思っていた私が、自分で生きているのじゃなかった、人間を越えた大きな大きなお陰さまでいかされている私だった」と気付かされます。今まで求めていた宗教は、理性で求めていたことに気づかれるのです。ご両親の佛法を求められている姿は、理屈や理性を超えられた姿であったのです。佛法は理性で求めるのではなく、理性が破られるのです。

 確かにお内沸のご本尊に手を合わすわけですから、偶像を崇拝しているように思われても仕方ない面もありましょう。しかし、これが間違いであることに気づかれます。
 念佛申すとは、南無阿弥陀佛と口に称える名号…ご本尊のことです。本当に尊い事に出会う事のできた時だったのでしょう。ご両親が朝夕日課にされ、一日のリズムとしてのお内佛でのお勤め、機会あるごとに欠かされなかった佛法聴聞を通して、佛さまにあう喜びを実感されていたことに出会っていかれます。決して目の前にある佛さまを偶像として拝んでおられたのではありませんでした。木造本尊も、絵像本尊も、名号本尊もみな念佛を申すことを私たちに教え示しているのです。
(輪 番)
(参考)『ほんとうのしあわせー・佛縁に恵まれて真の人生』
     河村とし子著
↑上へ戻る
真宗大谷派(東本願寺)茨木別院 Copyright (C) Since 2009 Exterior ibaraki-betsuin All rights reserved.