|
|
|
|
|
 |
|
| |
2010年5月 私にとっての親鸞聖人 No,2
聖人の物語について、子どもの頃に聞かせていただいたことを、思い出しながらひとつ。
歴史的事実は別として、荒唐無稽な幼稚な物語ではあるが、ほのかに何かうったえられているようでもある。それも東大寺さん側から出たものか?それとも大和の真宗門徒が言い出したのか定かでない。
話しというのはこうである。親鸞聖人の若かりし頃、法然上人の何かのお使いで東大寺へこられ、境内を歩いておられたその時、親鸞聖人の後ろをのこのこと阿弥陀如来がついて歩かれたというのである。それを目にした坊さんが、慌てふためいて阿弥陀様をだきかかえ元の台座に戻し、二度と歩くことの無いよう両足の甲に釘を打ち付けたという。今も俊乗堂というお堂に『釘打ちの弥陀』という仏様がおられる。その話の通りに仏様の両方のみ足の甲に釘を打ち付けた痛々しい後がついてある。
俊乗堂は、俊乗坊重源(しゅんじょうぼうちょうげん・1121年〜1206年)さんを祀られているお堂で、俊乗坊重源の像は日本の肖像彫刻の最高作品でその右に出るものはない。高等学校の教科書にも掲載されている有名な像で、好々爺の姿そのものである。その像の右手奥に、『釘打ちの弥陀』が安置されていて快慶作の重要文化財に指定されている。重源さんは法然上人のお弟子で、畿内を遊行してお念仏をひろめられたお方である。栄西とともに1167年入宋、天台山で学ばれた英才であった。
1180年・平重衝の兵火によって東大寺が炎上するや、当初、朝廷は法然上人を復興造営の勧進元と考えられたようだが、上人は重源を推挙された。彼は宋で学ばれた建築工法等の学問が生かされ、1195年に落成を成し遂げられた。晩年は念仏堂で念仏をひろめられていたという。
想像をたくましくするに、釘打ちの弥陀の物語は誠に胡散臭い話しではある。がしかし、重源さんの依頼によって佛師快慶が彫刻するにあたって、その物語を念頭において彫刻したのであろうか?それとも物語の興った後から両足に工作したのであろうか。また、佛師快慶の彫刻作品は、師匠等との共同作品では東大寺南大門の仁王像の大作があるが、一人としての作品のほとんどが阿弥陀如来像である。彼もまた念仏者であったのだろう。
親鸞聖人が東大寺に参詣されたかどうかは、これといった伝承はない。19歳の時、磯長の叡福寺(聖徳太子の廟)に参籠されたことは間違いなかろうし、そうなると京都から行くにしろ、京都に帰るにしろ法隆寺・東大寺は道筋である。長年不審に感じていることなのだが、法然上人の吉水教団が承元の法難で弾圧を受けるときに、東大寺の名が一つも出てこないのはなぜなのか?偶然ではあろうが、俊乗坊重源が亡くなると同時に承元の法難が執行されるのである。東大寺の復興造営は国の一大事業である。その時の長であるから朝廷に対しても働きかけも出来たであろうし、吉水教団の一大事なのだから、手紙のやり取りや言伝に、親鸞聖人が同門で面識のある重源師を東大寺に訪ねられたであろうことも想像出来ないこともない。
|
 |
 |
|
|
|
真宗大谷派(東本願寺)茨木別院
Copyright (C) Since 2009 Exterior ibaraki-betsuin All rights reserved. |