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2010年7月 私にとっての親鸞聖人 No,3


 親鸞聖人ほど聖徳太子を崇められたおかたは、他の祖師方にはおられないと思います。

 親鸞聖人には、聖徳太子を日本のお釈迦さまとして褒め称える(和国の教主・久遠の父母)二百首近い和賛があります。そしてまた、上宮太子御記なる伝記の書写本もあります。こういった著作書写は、聖人の八十歳を過ぎられてからの著作です。これには何か歴史的な背景があるのでしょう。

 聖人は、太子のお廟のある叡福寺(大阪府太子町山田)に、度たび参詣されたようです。伊勢の専修寺に伝わる『親鸞聖人正統伝』によりますと、十九歳のとき法隆寺に参詣され、その足で叡福寺へ三十三歳のときと二回参詣され、夢のお告げを感得されました。叡福寺の『見真堂縁起』によれば八十八歳のとき、ご自作の自分の像を奉納されています。史実はさて於いて、近隣の聖人賛仰者の願いとして、永遠の参籠を表したと云うことなんでしょう。聖人の史伝には、青年時代から聖徳太子との関係が深く伝えられています。十九歳の時三日間の参籠の中、二日目の夜、太子は十六歳孝養の像の姿を持って廟の石の扉を押し開いて現れたまい、次のように告げられたと伝えられています。

 『よく聞けよ、私のこの告命を』と太子は親鸞に呼びかけられる。というより親鸞聖人が太子の前で参籠し、ひざまづいた時に告命(夢告)が聞こえてきたのです。それはそんなお言葉であったのか。『お前の命はあと十年しかない。ぐずぐずしておれんぞ。命がけで道を求めよ。そうすれば命終わるとき、即時に浄土に往生すること間違いないぞ。善信よ、あなたこそ真の菩薩である』との言葉に接し、再び比叡山での激しい求道の十年間の修行へと歩み出されたのであります。

 叡福寺へは、私の自坊から西に二上山を越えて直ぐのところにあります。その道は堺まで通じていて、竹ノ内街道とも、伊勢街道とも呼ばれ、日本最古の幹線道路です。また、飛鳥時代の葬送の道で、境までの道筋には、当時の著名のかた達の御陵が数多くみられる有名な土地柄です。

 そういった事から、いろんな伝承も生まれます。自然にも恵まれていますし自然現象のかもし出します『山越の弥陀』の来迎図が有名です。その構図が、二上山の風景から生まれました。

 二上山とは、奈良県葛城市と太子町にまたがる、雄岳と雌岳の二つの峰が連なっている、海抜五百米そこそこのなだからな山です。その奈良県側のすそ野に、當麻寺と七高僧の一人『往生要集』の著書、源信僧都の誕生の地、良福寺という在所があります。

 八月のお盆ごろになりますと、夕日が二上山の雄岳と雌岳の中間に沈みます。その風景が何とも表現の出来ない、ひとときですが、素晴らしい様子をかもしだします。沈む太陽が山の樹木を照らし、紫雲たなびき西の空から、阿弥陀如来が来てくださる様に思われるのです。

 源信僧都も子どもの頃、二上山に沈む夕日を拝みながら育たれました。それが浄土信仰への深い影響をあたえたのです。

(参考文献・『太子道を往く』岡本精一著)
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