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2018/8唯信鈔文意
「いし・かわら・つぶてのごとくなるわれらなり」この『唯信鈔文意』の言葉は、親鸞聖人が、比叡山時代・吉水時代の「われ」という自覚を経て、流罪の後に徹底した自覚の中に見出されたのが「われら」という世界であろう。ここにはその日を一所懸命に生き延びている民衆の中に、自分自身の在り方を見出し、同じ地平に立たれ共に生きられたのが「愚禿」という名告りとなっている。そこには「煩悩具足の凡夫」という人間存在への深い眼差しがそこにはあるのであろう。

この精神は、「御同朋・御同行」(『御文』)という蓮如上人へと受け継がれていくのである。もう一度、親鸞聖人の「われら」の精神に立ち返ろう。そして教化者ではなく、仏法の願いを聞く「聞法者」になって、共に念仏を申していこうと呼び掛けてくださっているのである。どこまでも「この私自身」が、この親鸞聖人の精神に目覚め、「真宗」に生きる者とならなければならない。

今、宗教離れが問題となっているが、実は「僧侶離れ」が原因なのではなかろうか。仏の願いに生き、仏法を語る時、優しさと厳しさと温かみが必要なのであろう。この「熱」を失った時、仏法は「形骸化」し、僧侶の信頼が失われてしまう訳である。親鸞聖人の「われら」の精神を回復し、「御同朋御同行」として生きることが、今「念仏の僧伽」に求められているのではないでしょうか。 南無阿弥陀佛(輪番)

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