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2018/11「あそぶ」 と 「あそび心」
 子どもは「あそぶ」ことが仕事のようです。天真爛漫に遊んでいる子どもを見ていると、何ともほほえましくこころが和みます。
しかし、大人は子どもが「あそぶ」ことと、学ぶこと(例えば数字や文字をおぼえるなど)や仕事をすること(例えばお手伝いなど)を分けて考えようとします。このところに大人と子どもの大きなギャップ(乖離)があるように思えます。大人は「あそんでばかりいないで早く〇〇しなさい!」と言います。しかし子どもは遊ぶことと○○することが同じでないと、十分にあるいはしっかりと○○ができないのです。同じとは一体何が同じなのでしょうか。それは子どもの心根(こころね)のところで同じでないといけないのです。つまり子どもは遊ぶこともそのほかのことをするのも「あそび心」でやりたいのです。「あそび心」こそが子どもの「あそび」や勉強・仕事を支え、熱中させるのです。
今一度確認しておきますが、「あそび心」だからと言って決して大人の言う遊んでいるわけではありません。

以前にこんなことがありました。砂場用の砂として2tトラック一台分を注文しました。まだ職員がだれも出勤していない早朝の時間帯だったので、業者の方は園庭のど真ん中に砂をあけて帰られたのです。登園してきた園児たちが砂の山を見るや次からつぎへ、おカバンをおろす時間もおしげに一斉に砂山に駆けあがったのです。単純な環境ですけれども子どもたちにとってどんなに面白かったことだろう。砂山に触発されたこの「あそび心」こそが子どもを興奮させ熱中させたのでしょう。
 この「あそび心」を誘発し高ぶらせるのは、指示や命令では出来えません。子どもが生れながらにして本質的に持っているものが興味・関心というものです(もちろん大人にも間違いなくあるものです)。この興味・関心が「あそび心」の中身です。あそぶことも学ぶことも仕事をすることも、この興味・関心に突き動かされ高ぶった「あそび心」でやるのだということを理解しないといけないのだと思います。こどものやることはすべて「あそび」だということの訳がここにあります。 南無阿弥陀佛(輪番)

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