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2018/12報恩感謝
去る11月14日から16日まで無事今年の報恩講が厳修されました。まさに「報恩感謝」の御佛事でありました。ご門徒の皆様や崇敬のご寺院、その他関係する皆様方が、厚いお心をお運びくださった賜と心から感謝申し上げます。ありがとうございました。

 さて、「報恩感謝」という言葉は、私たちの日常生活にしっかり定着していますが、どう受け止めるのかとなると、少々面倒なことになるのではないかと思います。私の「機」と仏さまの「法」が一体とならなければなりません。次に一例をあげて話をすすめたいと思います。
  私の母は夫(私の父)を先の戦争で亡くしました。三人の子どもと義母を抱えた生活は、戦後の混乱期だけに想像を絶するものがあったのです。義母との関係もうまくいってませんでした。それでも夫との最後の別れの時、「母と三人の子どものことをよろしく頼む」の父のひと言と、培った夫婦の絆を大切に秘めて必死に生きていました。ある日、義母のひとことで生きる望みの全てを奪い取られたのです。「あの子(父のこと)はお前なんかちっとも好きではなかった。静(父の先妻で義母の姪)の方が好きやった。」と。その時母は目の前が真っ暗になったそうです。「頼む」と言われたそのひとことと絆を唯一の生きる望みとして必死に生きてきたのに・・・。二人の激しい言い争いの果ては、義母は「お前なんか子どもを連れて出て行け!」と。母は「出て行きます!」となってしまいました。

 母は夢遊病者のように私たち子どもの手を引いてさまよい歩いていました。琵琶湖の畔まで来て、松林の切り株にじっと座って何時間も考え込んでいました。突然私たちの手を取り、引きずるようにして歩き出し、気がついたときはもう水際だったのです。びっくりした私たちはとっさに母の手を反対の方に必死に引っ張っていました。「おかあちゃん、どこへ行くの!」を何度も繰り返しながら。引き戻された母はその場に倒れ込み、私たち子どもを抱きしめてオイオイと泣きくずれていました。  何年か経ってから、母が言いました。あのときの「おかあちゃん、どこへ行くの!」の声はまさに仏さまの声だったと。どんなに辛いからと言っても、子どもを道ずれに自らの命を絶とうとする母に、「あなたはそれでも間違ってはいませんか」との仏さまの声が聞こえたと言います。つまり自分のこと しか考えていなかった身勝手さ、その愚かな心の底をいかんなく暴かれた驚きが翻って、「仏さま よくぞお教え下さいました」と、自分の器量では決して気づけないこの事実に、心の底から「ありがとうございました 仏さま」と頭が下がったのです。これが報恩感謝ということだと思います。

そして自分の事しか考えてなかった身勝手さ、その愚かな心の底をいかんなく暴かれたのが「機」で、気づかせたのは「法」であります。 南無阿弥陀佛(輪番)

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