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2019/2湧き出ずるもの
今から35年ほど前、保育の新しい理念が模索されていた時期でもありました。そのころ私の関心ごとであった、「子どもの主体性を伸ばす保育のためのカリキュラム作り」というタイトルで、ある全国組織の研修会があり、どうしても参加したいと思い東京まで出向きました。ところが講義を聞いているうちに、なんだか期待していたこととかなり隔たりがあることに不満がつのり、思いあまって質問しました。「子どもの内発するもの(子どもが何かに触発されて内から湧き上がってくる力)を最も大切にする保育ということがありますが、そのことをいかがお考えでしょうか」と。返ってきた答えが、「最近自由保育ということがさかんにもてはやされているが、子どもを自由に放任しておくことで子どもが育つわけではありません。」というのが講師先生の言い分でありました。さらにそのあとの分散会では、講師先生を擁護するかのごとく、私一人に非難が集中したことも忘れられません。その講師先生は、当時文部省の保育の審議会のメンバーでもあり、日本の幼児教育界の指導的立場に立つ方々のうちの一人でもありましたのでそんなことになったのだと理解もしました。それよりも残念だったことは、「子どもの内発するものを大切にする保育」という自由保育が子どもを自由放任にしていると決めつけられたことでした。

 私は今でも信じて疑わないのですが、子どものみならず人間すべて、興味・関心に触発されて内から湧き上がってくる意欲とか勇気なるものほど確かなもの(真実)はないと思っています。まさに誰かから教わったものでもなく、又強制されたものでもありません。その意味では私たちの体の奥底に脈々と流れている純粋なものといわざる .を得ません。何らかの環境(縁)に出会って湧き上がってきたものは、世間でいう善でも悪でもありません。純粋そのものとしか言いようがありません。子どもにとっては何物にも代えがたい宝物だと信じます。

 保育の現場では、子どもたちは毎日毎日次から次へと、内から湧き上がるものを見せつけてくれます。具体的に言えば、深々とした興味、とりついて離れない関心、それに持っているものを離してでも、興味関心に触れたことをやりたいという意欲をもって、内から湧き上がってくるものを見せつけてくれるものです。

 子どもを信じなさいとよく言います。実際子どものしている行動や口で言っていることはなかなか信じがたいものがあるかもしれません。ここではそんなことを信じなさいと言っているのではありません。何かに触発されて湧き上がってくるものによって行動や言動に意欲を発揮する、素晴らしいことではありませんか。子どもを信じるとは、どの子にもそんな素晴らしいものがちゃんと心の奥底に脈々と流れている事実を信じるということです。そこのところを最高度に信ずるという立場を根底において営む保育が私は自由保育だといいたいのです。しかし子どもがそういう意欲をもって取り組むことって、そんなに数多くあるわけではありません。けれども子どもは「遊び」の中でその触発されるものに出会っていくのです。少なくとも大人が決めた制約の中での限られた活動では、なかなか出会うことができないと思います。してみると制約のない自由な「遊び」を中心とした活動の中でこそ出会うことが沢山あり触発されることも多いと考えると、「遊び」を中心とした保育・子育てが実に有効になってくることは論をまちません。こういう保育のことを世間では俗にあそび保育と言っています。もう一度確かめておきますが、遊び保育(真の自由保育)だからといいましても、、決して子どもを自由に放任することではありません。 南無阿弥陀佛(輪番)

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