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2019/6子どものこころが開放
先日 テレビの報道番組にこんなことが放送されていました。こどもが嬉々として遊んでいる動画がツイッターに投稿され、大人気を博しているという内容です。

ツイッターA.
おかあさんが洗濯物を干しに行っている間に、二人の男の子が台所のフロアーにいっぱい水をまきちらし、パンツとシャツ姿で腹ばいになってプールで泳いでいるかのようにパチャパチャ手足を動かしている動画です。お兄ちゃんがバケツで水を運んできて、弟がバケツをひっくり返して水をフロアーにまいたそうです。何回繰り返したかはわかりませんが、おかあさんによると水は大人の足のくるぶしあたりまであったそうです。この子たちにとってこの遊びはどんなにたのしかったことでしょう。こころゆくまで遊びを満喫したにちがいありません。

ツイッターB.
2歳ほどの男の子が、台所でお母さんの目の届かないうちに、米びつを開けお米をいっぱいフロアーにまき散し、お砂遊びをしているかのようにまき散らしたお米の上に腹ばいになって、何か小さなものを何かに見立てていっぱい並べ、うれしそうに遊んでいました。あげくの果てはお米をすくい上げ、自分の頭にぶっかけてバラバラおちてくるお米を見ては楽しんでいる様子でした。

この光景をみて、どちらのお母さんもびっくり仰天して、「これ、なに!」と言ったけど、あきれて笑いこけるしかなかったそうです。この子たちにとってこんなおもしろいことはなかったでしょう。こころゆくまで遊びを満喫したにちがいありません。

こんな時、私たちは子どもの「育ち」と言うことが一番気になります。AもBもいたずらと言えば確かにすごいいたずらです。こんなことを許しておいて今後の「育ち」は大丈夫かと心配する向きもあるでしょう。ところで「育ち」のなかみとは、これから長い人生を生き抜いて行かねばならない今、その生き抜く力、つまり旺盛な意欲と創造力であります。知識や学力はもう少し後でいいのです。そう考えてみると、AやBで見る子ども達は、まず誰かから強制されてその遊びをしたわけではありません。きっかけは何であったかはわかりませんが、自分で遊びをしはじめ、興味とおもしろさにつき動かされて、誰の監視も制止もなく次々と遊びを広げていったにちがいありません。この遊びを終わった時の子ども達のこころは全面的に開放されていたことでしょう。

私はこういう心の状態を保育の中では「子どものこころを開放する」=「こころの開放」と名づけています。子どものこころが開放されるほどに遊ぶと、次々と遊びを意欲的に広げていくという課程で「意欲」そのものが育ちます。子どものこころが開放されるほどに遊ぶと、次にもっともっとおもしろく遊ぶために工夫をするようになります。これが「創造力」を高めるのです。つまり子どもの「育ち」といわれる部分が養われるのです。Aの遊びもBの遊びも、まさに極端で特殊な例であって、そうそう簡単に準備できるものではありません。しかし私たち大人は、その辺にころがっている万と数えられる子どもの遊びを、「子どものこころが開放」されるように、遊びの環境を準備し、設定し、示唆し、助言しながら援助していくことが望まれるのではないかと考えています。 南無阿弥陀佛(輪番)

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