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2019/10「わがこころよければ 往生すべしとおもうべからず」
十年余り前のことですが、私の町内では六十五歳で老人クラブに入会することになっていて、私も早速入会して今日までずっと会員としてお世話になっています。
入会後何年かして老人クラブのお世話役をさせていただき、そのご縁で地域のお年寄りと和気あいあいとしたまじわりを味わわせていただきました。ところが会話をしている中で、お年寄りには実に不平不満が多いことに驚かされました。いわばしてほしいことが山ほどあるのです。

 布施奉仕ということばがありますが、「自分をすてて」「おしみなく」「おもいやり」「みかえりを求めず」「物・心をささげる」等々でイメージされるものとして示されているようです。これはある意味では仏教の立場からすれば常識とも思われてきたのではないかと思います。布施奉仕をすることは通常(常識)の世間では決して悪いことではありません。

 しかし困ったことに、布施奉仕は「わがこころよし」という自惚(うぬぼれ)を私の中に醸成します。最初は困っている老人のため、人のためにと、いわゆる善意として手をさしのべても、いつのまにか「わがこころよし」が頭をもたげてくるものです。何ともしてみようがありません。  さて、業(ごう)ということばがあります。業とは行為・行いのことです。単なる行為そのものは善でも悪でもありません。しかしその行為を行う人の心根(こころね)によって、それは善業にもなり悪業にもなるのです。そうしてみますと私たちの心根なるものは生来自分のことをよしとし、実に勝手気ままで自己中心主義的生き方しか出来ていませんので、善業などできようはずもありません。つまり人間のする行為は悪業でしかないのです。ですから本当の意味での布施奉仕からはほど遠いことになってしまいます。

しかし、真宗の教えでは、布施奉仕をしなくていいということではありません。善業が問題になるのでなくて、「わがこころよし」と思うのが問題なのです。つまり自分をよしとし、勝手気ままな自己中心的にしか生きていないこの身を、弥陀のご本願に出逢うことによって徹底的に暴(あば)かれ自らの姿が照らし出されて知らされたところに、素直に頭が下がるその時、「わがこころよし」ということが叩き壊されるのだと思います。 南無阿弥陀佛(輪番)

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