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2020/1「人も草木も虫も同じものは一つもないおなじでなくてみな光る」
自然界のすべての生あるものは、精いっぱいその「いのち」を生きています。それぞれの「いのち」を生きています。生きているそのことが光るのです。尊さはそこにあるのでしょう。
先日、ある女性が亡くなりました。抗ガン剤投与の治療で一年三ケ月の間、病魔と向き合いつづけてきましたが、ついにその生涯を全うしたのです。

病室で、また自宅のベッドで横たわる毎日でしたが、ときおり腕をあげて五本の指を一本ずつ折るしぐさをしていました。「何してるの?」と聞くと、俳句を作っているのだと言います。退屈しのぎもあるのでしょうが、頭がボケないようにとも言っていました。ほとんど毎日、多くの時間は一人ぼっちの闘病生活でありましたので、できた作品をタイムリーに書きとめてあげる人もなく、多くの作品がボツになっていたにちがいありません。そのうち六首ばかりが残っていました。

窓の外 つばめがつつく 何の用?
すずめきた 仲間よび寄せ えさつつく
草ガメだ 冬眠覚めて 動き出す


等々。俳句には全く素人の私が見ても、決していい俳句だとは思いません。
しかし、この句を目にしたある人がこう言ってくださいました。「この方は長い間(五十有余年)、子どもの保育に生涯をかけてこられました。闘病生活に入られてからは、かわいい子どもたちと接することができませんでしたが、この方は本当に子どもを愛し、慈しみを惜しまなかった方でした。おそらく心の中に満載されている愛と慈しみが鳥や小動物に向けられたのに違いありません。本当にみんなから慕われたかたでした。」と。 この言葉を聞いて、私は亡くなった女性に心からの尊敬と信頼を寄せるのです。今までずっとそばにいたのに全く受け止め、感じ取ることができませんでした。

 これは言うなら、仏さまの愛と慈悲の心だと思います。人間の愛と慈しみを仏さまのそれ(阿弥陀仏の慈悲)と同じように受け止めるのは次元の違う話であるとは思います。しかし、私が感じ取ったその女性への尊敬と信頼は、間違いなく私の中に生起したものです。そうであれば聞法を尽くして私の中に信心をいただく(生起する)のも、構造的には同じものだと思えるのです。
愚かさに目覚める(南無帰命)ことで信心をいただくのですが、長い生活の中で、その女性に対して、その尊さや信頼を感じ取れてこなかったこの身の愚かさに深く首を垂れると共に、「おなじでなくてみな光る」に出会わせていただいたことに無上の喜びをかみしめているのです。 南無阿弥陀佛(輪番)

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