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2020/3「意」の保育(前号からのつづき)
前号で私が提唱する「意の保育」について、ドイツの研修で学び取ってきたことをお話しいたしました。
つまり「意」とは、何度も申し上げている通り「主体性」であり「意欲」であり「やる気」であり「積極性」をその内容とします。この「意」を今の時代にことさら問題にしなくてはならないと思えるのは、今のこどもに蔓延している「主体性」に欠ける、「意欲」に欠ける、「やる気」に欠ける、「積極性」に欠ける実態であります。一時期よく言われた言葉に「指示待ち人間」とか「言われたことしかできない」ということがあります。この実態は今も延々と続いています。

 さて、その「意」とは本来人間としてこの世に生を受けた以上、間違いなくどの子どもさんにも備わっているものであります。強弱の差はあってもすべてのお子さんに間違いなく備わって生まれてきているのです。

それなのになぜ今の時点で「欠け」ているのか?ここが問題なのです。「意」なるものがせっかく身に備わっているにもかかわらず、なぜ本領を発揮してくれず「欠け」ているのか。その原因はここにあります。それは何号か前のこの誌面で述べたことでありますが、戦後欧米の新しい教育システムを取り入れて学力競争の時代になりました。日本の親は「少なく生んで賢く育てる」の風潮に走りました。その結果、親の願いを実現させるため、子どもに過大な期待をかけるようになり、子どもの思いに配慮しないようないろんな要求を子どもに押し付けるような風潮になってしまいました。加えて少なく生んだ数少ない子どもでありますので、必要以上に過保護・過干渉になってしまいました。

これをシャワーのごとく浴びせられた子どもの側は、過重なストレス(雲霧)のようなものを蓄積していくことになったと分析できます。このストレスなるものが、折角どの子も持ち合わせている「意」の周りを何重にも包み隠して、折角の大切な「意」を雲霧のごとく覆い隠して表に現れ出ないような構造になっているのです。

 そこで次のような解決策が導き出されるのです。幼児教育の使命はこの雲霧を取り去ってあげることです。園の保育や家庭での子育ての現場は、何としてもこの雲霧を取り去ってあげることに力を尽くすべきなのであります。その結果として雲霧で包み隠されていた「意」が表に表出するのです。

その方法はただ一つ、子どもたちがストレス(雲霧)を浴びせられてきた過程の逆をすることです。つまりストレス(雲霧)は、子どもがしたくもないことをやらされる、意味もない我慢をさせられる、自分でできることを周りの大人が先々にやってしまう(過干渉)、過剰に大事にされること(過保護)等々によって蓄積され、それが雲霧となって「意」の周囲にコベコベに取り付いて「意」を覆い隠してしまっているのです。

何度も申し上げていることですが、子どもの遊びというのは興味関心にひかれて遊び始め、その面白さに深く深くのめり込んでいき、とことん最後まで遊びきるというのが遊びそのものの本質なのです。その結果として得られるものは、やり切ったという達成感であり開放感であります。これこそが子どもの心を開放する保育の眼目であり、「心の開放」保育と名付ける所以であります。
こういう遊びを保障してあげることが、「意」の周りにこべり付いた雲霧を徐々に取り去って、その隠された中に眠っていた「意」を呼び起こし、主体性・意欲、やる気、積極性を回復した子どもを育てることにつながるのだと私は信じています。 南無阿弥陀佛(輪番)

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