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2020/4いのち
「いのち」を大切にするということは、真宗大谷派だけでなく、あらゆる仏教教団及びその他の社会団体等で盛んに言われ大切にされています。わが大谷派では先の親鸞聖人七五〇回御遠忌法要のテーマとして、「今、いのちがあなたを生きている」が定められました。当初はかなり難解なテーマが出てきたなと正直思いました。後になって「いのち」の本当の意味が分かっていなかったと反省したことでした。

 ある機会に「いのち」はこの私を生かそう 〱 としてくれているものだと教えていただきました。つまり「いのち」とは姿・形のないもので、実体的にとらえることができません。これが難解の理由なのでしょう。「いのち」はそれに支えられ生かされている実感を得た時、わたくしのところに「いのち」として姿をあらわすのでしょう。 こんな文章にであいました。

『おにぎりがこんなにおいしいなんて』(「悲しむ力」 中下大樹 著)
 『「避難先に炊き出しにいったときのことです。炊き出しを終え、後片付けをしているときに、ある女性が話しかけてきました。 「私は子どもを失いました。家も流されました。これからどうやって生きていこうか途方に暮れています。でもね、絶望の中でもおなかがすくんですよ。おにぎりがこんなにおいしいなんて気がつかなかった」  人は悲しいとき、つらいとき、腹が立つとき、食欲すら失ってしまうことがあります。情けない話ですが、私は被災地に出向いた後にうつ状態になり、都内に戻ってからもしばらく食欲がありませんでした。

 では、子どもも家も失ったのに「おにぎりがおいしい」と言えるこの女性は、十分に悲しんでいないのでしょうか?もちろんそうではありません。大切なわが子を失い、家も流されてしまって、悲しくないはずがありません。しかし、生きる気力すら失いかけていても、「いのち」のほうから「生きてください」と呼び掛けてくる時があるのです。 「おなかがすいた」「おにぎりがほしい」  これは、彼女に対する、「いのち」からの呼びかけです。悲しみや苦しみ、いかりなど、私たちの感情とは別のところで、「いのち」が彼女に「いきてほしい」と願っているのです。絶望的な状況の中で語りかける「いのち」の力に、私は感動しました。』という文章です。

 念仏も同様だと思います。まさに姿・形のないものです。しかし念仏すなわち弥陀のご本願によって生かされ、ご本願のはたらきによって、力づよく生きていけるという、その尊さに感動したものだけに、その姿・形がいかにも実体的にあるかのごとき体感をおぼえるものだと思うのです。

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