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2020/7念仏もうすところに 立ち上がっていく力が あたえられる
私などは真宗のお話をするとき、お念仏を申すということは「生きる力があたえられる」とか「生きいきと生きる力が与えられる」とか、右のことばのように「立ち上がる力があたえられる」のですとよく言います。前後の説明が無くて、この言葉だけを取り出して言ってみても何のことかさっぱりわかりませんね。何でそんなことになるのという疑問ばかりが残るに違いありません。そこでその前後の説明を少ししてみたいと思います。

真宗の教えを聴聞するとき、たびたび「真実」とか「まこと」という言葉が行き交います。真宗の「真」という文字が「真実」を顕わすことばです。故に真宗におきましてはとりわけ大切な文言であります。ところで私たちは、善い心の中身として「真実心」とか「まことの心」に強い関心をおぼえ、その心を追い求め、身に具えたいと常に願っているようであります。その証拠に、自分としては少しの善意を発揮して良いことをしたとしても、すぐに自分を褒め、人にも自慢してしまいがちであります。

しかし、真宗の人間観、つまり親鸞聖人が人間というものをどのようにおさえていらっしゃるかというと、人間には「真実」「まこと」のこころなど微塵もないと言いきっておられるのです。では、「真実」「まこと」の心はどこにあるのかと言えば、それはすべて一切合切(いっさいがっさい)阿弥陀さまの側にある。「真実」「まこと」はそれそのものが阿弥陀如来の持ち物であり、阿弥陀さまのお心なのであります。それならば「真実」「まこと」の心など微塵もないといわれる私たちはいったい何者なのか。

さて、どう考えてみても私たちは都合よく生きることを日常としています。つまり私たちは、いかに都合よく生きていくかというところに立つしかできないのです。この「都合よく生きる」ことがすべての人に備わっている本性なのです。しかし都合よく生きようとすると、都合よく生きられないことばかりが次からつぎへと私を襲ってきます。その時、頭をもたげてくるものが(実はこれが私たちの側にある持ち物なのですが)、怒りや腹立ち、妬(ねたみ)や嫉(そねみ)がこの身と心を煩わします。これを「煩悩」と教えられています。そして煩悩に引きずりまわされ、煩悩にひっかきまわされて、「真実」をまったく見えなくされている人のことを凡夫というのです。煩悩具足の凡夫ともいわれます。

さて、話は前にもどりますが、「真実」「まこと」はほとけさまのおこころ、人には「真実」「まこと」は微塵もない。それなら「真実」「まこと」は私たちとは全く無縁のもの、まったく触れられないものなのでしょうか。教えの中には「慚愧」ということがあります。慚愧とは、「都合よく生きようとする」私、つまり煩悩に引きずりまわされて、迷いに迷って苦悩しているこの私に、誠に「身勝手」(不真実)であったと、ハッと目を醒されること(これを慚愧という)があるのですが、私に目を醒まさせるはたらきが、仏さまのおこころ(「真実」「まこと」)なのであります。そう信じることができるようになるのは、仏さまの教えを聞くこと(聞法)を通す以外にはないのです。

そんな時、身勝手で不真実極まりないこの私が、今ここに間違いなく生きているではないか。この事実は一体何か?それはこの私を「生きよ!」と支えていてくれる人がいる。このいのちを生かせているものがある。生きよと背中を押しているものがある。それを自覚した時、この怠惰な私を立ち上がらせるのであります。

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