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2021/1新年
新年あけましておめでとうございます。令和二年はコロナ禍に振り回された一年でした。何かしら締りのつかない年を終え、迎えた令和三年は何かしら不安が覆い、新年の期待や希望の全てをコロナワクチンに持っていかれてしまったような新年であるように思えてなりません。

さて、新年を迎えるにあたって思い当たるのは、蓮如上人の「道徳はいくつになるぞ、道徳、念仏もうさるべし」のお言葉です。 これは蓮如上人が晩年、山科本願寺で隠居の身であられた時の正月のことです。勸修寺の道徳(蓮如上人のお弟子さん)が新年の挨拶に参上した時の蓮如上人の第一声でした。おそらく道徳は○○歳になりましたと答えたでありましょう。しかし蓮如上人にとっては、本当は歳をたずねているのではないぞ! という思いであったようです。そのことは次におっしゃったことば、「道徳、念仏もうさるべし」がそのことを如実に言い表しています。道徳よ、その歳になって「後生の一大事」は定まったのか! ということが言いたかったのでありましょう。この問答を受けて、念仏に生かされる人生、念仏によって力強く生きていく人生の大事を再確認したいと思います。

NHKの報道番組にこんなことが紹介されていました。シングルマザーで四人の子どもを抱えて生きていらっしゃる方が、コロナ禍で仕事が切られてしまい生活苦のどん底に追い込まれているということでありました。何度も何度もハローワークに出向いて職さがしをされるのですが全く成立せず、唯一紹介されたアルバイトが、深夜から翌朝五時までの仕事であった。家族と相談した結果、そんな深夜の仕事を続けて、お母さんが倒れでもしたら元も子もない。そういう結論になって選択された道が、高校生である長女のお姉ちゃんがアルバイトをするということになったそうです。高校生のアルバイトだけで五人の家族が生活することは不可能です。誠に悲惨な状況であります。

世の中にはコロナ禍でこのような例は万とあるにちがいありません。そのような方々にとって「念仏もうさるべし」はどう響くのでありましょうか。今のこの生活から抜け出す手段にならない(つまり念仏ではお金が入ってこない)のならば何の意味も興味もありませんという答えが返ってくるに違いありません。確かに念仏を申したからと言って直接的にお金が入ってきたり儲かったりすることはないのですから。

さて、念仏の教えは究極的には「力強く生きていく力」が与えられることでありますから、まさにこのような苦境のどん底にある家族に届いていれば、生きていくためのお金は算段しなくてはならないにしても、もし先もって教えに出合っていたら、与えられた「力強く生きていく力」によって、この苦境の難関を突破していくことが出来るのではないかと思います。人生で苦境に陥って、その難関を突破しなければならないのは、この家族のみならず私たち全ての者の背負いものです。ならばこそ「念仏もうさるべし」と蓮如上人が力強くおっしゃる言葉の意味を深く受け止めねばならないと思うのです。

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