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2021/7・8わがこころよければ往生すべしとおもうべからず
七月に勤修します暁天講座の講師として大谷大学教授東舘紹見先生にご出講いただくことになりました。令和元年の法語カレンダー随想集「今日のことば」の中で、九月のことばを担当し執筆されています。先生のご了解をえましたので、先生をご紹介する意味で、その文章を掲載させていただきます。

わがこころよければ往生すべしとおもうべからず
(令和元年法語カレンダー九月のことば)

このお言葉には、私が浄土(じょうど)に往生(おうじょう)する道を歩むこと、すなわち、阿弥陀(あみだ)如来(にょらい)のはかることのできない、いのちと光を敬いつつ生きることとはどのようなことなのかが示されています。
私が阿弥陀如来のいのちと光に出(で)逢(あ)ったことを示すできごととして、私自身の姿が知らされる、言い当てられるということがあります。 それまで自分を「よきもの」として正当化しようとし、ごまかし、言い逃(のが)れを続けてきた自己中心的な在り方が白日(はくじつ)のもとにさらされる、どうにも否定のしようがない姿が言い当てられる。それは私にとって、本当に逃げ場のない厳しいできごとです。そして、その私にとって最も大切な出逢いは、私と共にある存在をとおしてなされます。

ところが、おそろしいことに私は、そうした自分自身のどうしようもない姿を照らされ知らされた大切な事実をも、すぐにまた、自らを「よきもの」として立てていくことに利用しようとするのです。その時にはすでに、自らのあり方を照らされ、言い当てられた時の身の置きどころのなさ、はずかしさは消え失(う)せてしまっています。そして、自らのあり方を言い当てられたそのこと自体をたのみとして、今度はそれにさっそく寄りかかり、他者を批判し否定しようとするのです。せっかくいただいた念仏(ねんぶつ)の功徳(くどく)を、自分でもほとんど気づかないうちに、自らをふたたび「よきもの」にしていくために呑み込んでいこうとする、どうしょうもなく傲慢(ごうまん)な姿です。

そのような時、私が頭の中に思い描いている「浄土」とは、一体どのようなところなのでしょうか。それはもはや、私の闇(やみ)を照らし出してくれる存在ではなく、そうした存在すら自らのうちに取り込み居直(いなお)ろうとする私が、ぬくぬくと逃げ隠れるのにちょうどよい場であるにすぎないのでしょう。私の、自分を「よきもの」として立てようとする心の闇の深さは、本当に果てしがないように思われます。

私にとって皆と共に往生(おうじょう)道(どう)を歩むこととは、常にそうした私の姿が、ただ照らされ、破られ続けることなのでありましょう。そして、そこにおいてのみ、共にある自他のいのちの尊さが実感され続けるのでありましょう。

不可思議(ふかしぎ)の利(り)益(やく)きわまりましまさぬ御かたちを、天(てん)親(じん)菩薩(ぼさつ)は尽(じん)十方(じっぽう)無碍光(むげこう)如来(にょらい)とあらわしたまえり。このゆえに、よきあしき人をきらわず、煩悩(ぼんのう)のこころをえらばずへだてずして、往生はかならずするなりとしるべしとなり。(訳文―不可思議の利益がきわまりないかたちを、天親菩薩は「尽十方無碍光如来」とあらわしてくださいました。そうであるのですから、善い人、悪い人と区別せず、煩悩(ぼんのう)の心を拒否せず否定しないで、必ず往生するのだと知れ、と教えてくださっています)
私の思いが徹頭徹尾(てっとうてつび)自己中心的である限り、自他を疑いつつ、不確かな自らの判断や考え方を頼りに生きようとする性根(しょうね)は変えようがないのだと思います。しかし、だからこそ共に生きよう、共にあろうとしてくださる存在から、自らの姿が照らされ知らされ、素直に頭が下がった瞬間のありがたさ、尊さも実感できるのだと思います。

これからも、あらゆる存在を真に尊敬し、共に歩まんと願う生き方は、ひとえに、自らを「よきもの」として立てようとする闇の深さを照らされ破られるところにこそいただくものであることを、「わがこころよければ往生すべしとおもうべからず」との宗祖(しゅうそ)の懇(ねんごろ)ろなお諭(さと)しとともに、日々の生活の中に教えられ続けていきたいと思います。

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