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2021/12真の知識にあうことは かたきがなかに なおかたし
私が茨木別院の輪番に就任いたしましたのが、二〇一八年の九月一日でありました。その年十一月の報恩講が私の輪番としての最初の報恩講でした。その報恩講の法話講師に前宗務総長の里雄康意氏にお越しいただきました。その思い出をたどりつつ、里雄氏が二〇一九年十一月の法語カレンダーの解説をされています。とても平易な文章で分かりやすく解説しておられますので、今月はその文章を掲載させていただきます。

真の知識にあうことは かたきがなかに なおかたし

今から四十七年前大学を卒業し、周りの人々の勧めによって、真宗本(しんしゅうほん)廟(びょう)奉仕(ほうし)の方々と僧伽(さんが)の生活を共にする、同朋(どうぼう)会館(かいかん)の嘱託補導(しょくたくほどう)という仕事をさせていただきました。

寺に生まれながらも仏法に遇(あ)うこともないまま、寺院生活に対し疎(うと)ましさだけをもち、僧侶である自分を意識的に遠ざけていた時です。そんな私の有(あ)り様(さま)をずっと見守り続けていてくださった方々が、仏縁を結ばせようと嘱託補導に押し出してくださったのであります。

全国から真宗本廟奉仕に上山された方々と語らいの時間を持たせていただき、自分の浅い人生経験と知識を頼みにして話し合う場をつくっていましたが、場が重なるにともなって話を深めることもできず行き詰(づ)まり、どうすることもできなくなることもありました。自分の無能力さ、知識の浅さに劣等感、失望を感ずる日々を過ごすことになっていったのです。
それを逆恨(さかうら)みし、こんな難しい場所に送り込んだと恨(うら)み、妬(ねた)ましくさえ思うこともありました。

そして、自分が頼みとしている自分の能力や知恵では間に合わないのに、それらさえ磨(みが)き鍛(きた)え上げればなんとかなるのだと思い込み、苦しい日々を過ごすこととなったのです。それと同時に、教導の先生のご法話も耳に入らず、奉仕団の皆さんの声も聞こえなくなっていきました。

まさしくそれは、自分の自負(じふ)心(しん)を頼みとする独りよがりの世界が生み出したものでしょう。ですが、それを思い知ることは、「難(かた)きがなかになお難(かた)し」です。

しかし、教導の先生のご法話にあい、奉仕団の方々の生活から生まれる言葉に出(で)遇(あ)っていくことによって聞法(もんぽう)が深められ、この行き詰まりは自分の経験、能力、知恵を頼みとしている有り様がなさしめていたのであると思い知らされました。

自らの独善的な自負心から生ずる疑情が、人々が親鸞(しんらん)聖人(しょうにん)の世界を求め生きることによって培(つちか)われた深い生き方を見えなくさせていました。私たちは、独善的な自負心にとらわれ、広大(こうだい)無辺(むへん)の仏(ぶっ)智(ち)に気づくこともなく過ごすことによって、人として生きることの豊かさを失っていくのです。そのことに気づくのに聞法の時を経るのです。 聞法求道(ぐどう)に生きる人々との出遇いによって、この私は自分の能力、知恵、経験を頼んでいたと気づかされた時、かたじけなさを感ぜずにはおれません。

仏智の中にありながら、自分の我情を絶対化し、それにしがみついていることに気づけない者が、仏法を求めて生きている人に出遇った時、見えていなかった世界が見え、聞こえていなかった声が聞こえるのです。

私の独善的な自負心が、本願の歴史、本願の世界を物語ってくださっているよき人に出会いながら、聞く耳を持たず、よき人をよき人と見出すことなく、広くて豊かな世界を自ら狭(せば)めているのです。それを思い知らしめてくださるのが、如来の教法(きょうぼう)を伝えてくださる真の知識なのです。

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