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茨木別院

茨木別院の歴史

北摂の地は京都、山城に近いこともあり、古くから真宗にゆかりの深い地でした。
古くは、本願寺第三代覚如上人とそのご長男存覚上人がたびたびこの地を訪れ教化に力を注がれました。
また、蓮如上人は越前吉崎御坊を退去した後、丹波を経て摂津に入り、河内出口に居を構え、摂津富田に御坊(のちの教行寺)を建立して教化の拠点とされました。 このような中、茨木別院は慶長8年(1603年)、東本願寺第十二代教如上人によって建立されました。その土地は、当時の茨木城主、片桐且元より城内の一角を寄進されたものでした。

教祖「親鸞聖人」について

当時、教如上人は本願寺の宗主を弟の准如上人に譲って隠居の身でしたが、文禄5年(1596年)大阪に大谷本願寺(後の難波別院)を建立され、京都と大阪の間を頻繁に行き来されており、その際京都大阪の中間に当たる茨木に宿泊されることが恒例となっていました。教如上人はこの茨木の地に宿泊をかねた施設を設けたいというお考えがあったようです。
親鸞聖人

別院本堂の歴史

別院本堂は慶長8年(1603年)11月に完成し、その際には、教如上人は自ら下向して、落成を兼ねて報恩講を親修し、寺号を満照寺と名づけられました。その後も工事は進められ別院としての諸殿が完備したのは慶長11年(1606年)のことです。
茨木本堂

別院本堂の完成まで

寛文11年(1673年)の東本願寺十五代常如上人の『御書』の中に「坊舎の修復」の記述が見られ、このころ創建より約70年を経て老朽化した建物が修復されたことが知られます。
その後、宝暦7年(1763年)理由は明らかではありませんが、本堂などが大破し再建されることとなりました。別院に残された「棟札」によれば安永6年(1777年)に本堂の再建が成就しました。
続いて諸殿(書院、庫裡、輪番所、客殿、鐘楼堂、門、僧侶詰所、講社詰所等)が改築、整備が進められましたが、相当の時間を要したようで、享和3年(1803年)の東本願寺第二十代達如上人の『御書』には工事がまだ完成していないことが記されています。
完成の時期に関しては確かな資料が残っていませんが、天保7年(1836年)頃には完成したようです。

別院本堂の現在

現在の本堂はこのとき再建されたもので、正面15間(27m)・奥行14間(25m)あります。当別院は、鐘楼・太鼓堂・御殿・書院・会館・庫裡等で構成されています。 境内には、400年の歴史をもつ茨木市指定保存樹「弘誓の松」(東本願寺二十三世彰如上人命名)があります。 また境内には、昭和18年(1943年)創立の大谷学園幼稚園と昭和30年(1955年)認可の茨木保育園を、茨木別院付属園として運営しています。 さらに300余年の伝統をもつ本山「本山九日講」は、今なお300人の講員を中心に門徒の手で運営され、崇敬寺院巡回の毎月の聞法活動が続いています。

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