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2016/8亡き人を案じる
今年も早いもので、お盆の季節が訪れてきました。いつも「亡き人を案ずる私が亡き人から案ぜられている」という言葉が響いてくるのである。
私たちは、肉親やご縁のある方に対して、「亡き人を案じる」ことは当然の心情でしょう。
しかし、迷いの衆生である私たちからの一方的な思いを絶対化することの「危うさ」を教えられるのである。ここに大切な亡き人を、私の身勝手な都合で迷わせてしまう根っこがあるようである。

しかし親鸞聖人は、「一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり。いずれもいずれも、この順次生に仏になりて、たすけそうろうべきなり」(『歎異抄』)と、さらに広くて深い世界に生かされている視座に立たれています。
この視座に立って念仏申す時、「亡き人から案ぜられている」という世界が開かれ、先立っていかれた方々がこの私に「諸行無常の身」を教え、そして「生まれた意義」を顕かにせよと問いかけてくださっているのであろう。
大切な亡き人の死を機縁として、この私一人の人生を顕かにすることが深く願われているのです。どこまでも、亡き人の声なき声を聞き訪ねて、お盆という大切な仏事を迎えたいものである。南無阿弥陀佛(輪番)

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