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2017/5絶対化の私
今年の桜の開花は全国的に遅く、また春の嵐によって、あっと言う間に桜は散ってしまいました。そして新緑の鮮やかな季節とは逆に、時間の速さにただ空しさを感じるのである。
日に日に老いていく我が身を受け止めていくこともできず、ついつい「愚痴」ばかりが出てきてしまうのである。ここには、私自身に対して様々な条件や価値観、そして経験値によって「絶対化の私」を生きているからであろう。そのままの「無条件の私」を引き受け、素直に生きていないからこそ私の思いには合わず苦悩が生じ、本当の自己に出遇えないのであろう。それはかたくなになればこそ、深い「迷い」に陥ってしまうわけである。

金子大榮先生は、「人として生まれた悲しみを知らないものは、人として生まれた喜びを知らない」と教えてくださっています。今の私にとっては、非常に響きのある言葉である。どこまでも人として生まれてきた「喜び」を知る前に、そこには必ず「悲しみ」があるのだと、人間存在の「悲しみ(悲歎)」こそが大事なのだと教わるのである。

「あなたは本当に人間を生きていますか?」と深く問われているのである。私自身の生き方を「絶対化」することなく、こんな私を「無条件」で引き受けてくださる世界がある。そこに初めて悲しみを超えていける「本願念仏の教え」に出遇えた時、今すでにこの身を引き受けて生きていける「喜び」を知ることができるのであろう。 南無阿弥陀佛(輪番)

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