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2017/8お墓という大切な「場」
「〇〇家のお墓に、違う姓の方が入ったら喧嘩をすると聞きますが大丈夫なのでしょうか?」という質問を、よく御門徒さんから受けます。

しかし本来お墓とは、そんな狭い世界の次元の問題なのであろうか? ご存知の通り、浄土真宗の墓石には、「南無阿弥陀仏」もしくは「倶会一処」と刻まれています。ここには、「南無阿弥陀仏」という浄土において救われていった方々も、また今迷いの只中の私たちも共々に救われていく世界が表現され、共に一つの処(浄土)で出遇い直していく「場」があるという大切な意義があります。 『歎異抄』の第五章には「一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり」と親鸞聖人は、深いいのちの在り方を語っておられます。
どんな人生を歩もうが、どんなに罪悪が深くとも、すべていのちあるものは永いいのちの歴史の中で皆、平等ないのちを生きていることを教えてくださっています。

ここに、生前の関係性や想いにこだわっているのは、どこまでも人間の理知分別や感情での狭い事柄であり、偏った見方であることが教えられます。阿弥陀如来の眼からは、嘘か真実(まこと)かということが言い当てられており、皆、共なる世界(浄土)へと出遇い直していく深い願いがある。 だからこそ、人間の不確かな分別は全く不要であり、私たちの思いを超えて、すべてを包んでいく世界に目覚めさせていただくのが、お墓という大切な「場」なのであろう。 南無阿弥陀佛(輪番)

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