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- 2016/12報恩講
- 当茨木別院では、11月14日から16日まで、「報恩講」が勤まります。
宗祖である親鸞聖人は、一人の人間として様々な苦悩と悲しみと真向いになり、「愚禿」という自覚を貫かれ、「ただ念仏」の道を生きられた方でありました。
『故法然聖人は、「浄土宗のひとは愚者になりて往生す」と候いしことを、たしかにうけたまわり候いし』(『末燈鈔』)と、よきひと(師)である法然上人からの金言として、生涯、「念仏者」として生きられました。
では、一体「愚者」とはどういう意義をもつのであろうか。私たちは、常に自己を中心として、正当化して生きているのではないでしょうか。損・得や善・悪、また賢・愚などなど…言うならば、「邪見(偏った見方)」と「驕慢心」を無自覚に生きている「悪衆生」の姿こそが、この私の在り方といえるのではないだろうか。
だからこそ、「煩悩具足の凡夫」の身として、「念仏の教え」に訪ねていかれた親鸞聖人のご生涯に、「愚禿」という生き方を学ぶのである。そして「往生浄土」への歩みを確かめ合い、「念仏生活」を踏み出す機縁こそが、「報恩講」の大切な意義となるのである。南無阿弥陀佛(輪番)
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