1. トップページ
  2. 教えるに触れる
  3. 過去の言葉
2019/3われらは 善人にもあらず 賢人にもあらず
この言葉は『唯信鈔文意』の中で親鸞聖人が善導大師のお言葉を解説されるところに出てくる言葉です。しかし「われらは 善人にもあらず 賢人にもあらず」だけではその真意が伝わりませんので前後の文章を紹介します。すなわち『唯信鈔文意』では次のようになっています。現代語訳で紹介します。

  「不得外現 賢善精進之相」(外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ)(散善義)というのは、あからさまに、賢そうな姿や善人ぶった外見を現すな、精進努力する姿を示すなというのである。何故ならば、「内懐虚仮」(内に虚仮を懐く)であるからである。内は、うちという。心の中に煩悩がそなわっているから、虚であり、仮である。

虚は、空虚で事実とならないことである。仮は、かりにあることで、真ではないことである。この意味は、先に述べた通りである。この信心は、必ず、まことの浄土に往生する種となり、実となるのであると、偽らず、へつらわず、真実の浄土に往生する種になる信心である。したがって、我々は善人でもなく、賢人でもない。賢人というのは、賢くて善い人である。

と示されています。  私たちは、普通常識では善人になりたい、賢人になりたいと 思うものです。それどころか、善人ぶりたいし 賢人ぶりたいのです。しかしその私たちの常識に反して、親鸞聖人は「善人でもなく、賢人でもない」のだと言い切られる。そのわけは「内懐虚仮」、つまり心の中は煩悩に満ちていて、空虚で事実とはならず、真実でないものばかりをかかえこんでいます。だから外見ばかりいいカッコウをしていてもダメですよ、あなた。ということになります。

 しかも、「不得外現賢善精進之相 内懐虚仮」(外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ。内に虚仮を懐けばなり)を深く信じることは、必ずまことの浄土に往生する種となり、実となる信心であるとお示しくださることは、しかと聴聞すべきことだと思います。 南無阿弥陀佛(輪番)

このページのトップへ