1. トップページ
  2. 教えるに触れる
  3. 過去の言葉
2022/5自由保育と一斉保育
「自由保育」に対して「一斉保育」いう言葉があります。これは保育を形態の上から見た分類の仕方です。
この両者はいかにも対立するものと勘違いをする人があり、時によると保育論争の種にもなることがあります。保育は形態でとらえるべきでなく、質でとらえるべきであります。
だから「自由保育」というのは、形態の一つであって、『幼児が真剣に求めているのは自由である』ということを、どれだけ尊重できるか、そしてそれを保育の上でどう実現できるかということであります。
これができるには、保育者も保護者も自由を求めている人間であることを、いつも自分の問題として、また社会の問題として、ずっと考え続ける保育者、もしくは保護者でなくてはなりません。このように考えていくと「一斉保育」は「自由保育」に対する反対語ではなく、あくまでも保育形態の違いであるということがお分かりいただけることと思います。

人間は社会的存在ですから、いつもその時代とその地域(環境)から制約を受けて、その中で生きていかなければなりません。ある意味では束縛です。不自由です。でも、その中に自由を獲得していくことが、人間として生きていく課題であります。
この点では幼児も大人も一緒です。

このような考えに基づいて、少し現場のことに目を向けてみます。園での活動の中で、①自分で自主的に自由に遊びを数多く選ぶことが出来る場合もあります。しかし、②園舎の構造・園庭の広さ・地域環境の事情・園児の数・保育者の人数・その年齢等々、多くの条件が総合された中で、保育者の指図に従って皆と一緒に活動しなければ保育が成り立たない場合もあります。いずれの場合も保育の現場であり現実です。
ここで大切なことは、たとい保育者の指図によって保育が進められる(一斉保育)としても、指図そのものが悪いのではなく、そこに『幼児が真剣に求めているのは自由である』ということをどれだけ尊重しているかということであります。
つまり、保育者からの指図(指導)が幼児の自由を求める意欲を根本的に破壊することだけは絶対に避けなければならないことであります。反対に何でもかんでも子どもに自由ばかり与えることは、幼児が自由を求める意欲の唯一の条件でもありません。(次号に続く)

このページのトップへ