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2020/11報恩講
今年も報恩講の時期がやってまいりました。報恩講は真宗門徒にとって何よりも大切な御仏事とされてきました。しかしながら今年の報恩講につきましては、今だ収束の目途が立たない新型コロナウイルス感染症対策により例年通りの日程で勤修できない状況にあり、いろんな面で縮小したかたちでおつとめすることになりました。報恩講をおつとめするためにこの一年間があった(真宗門徒の生活は、報恩講にはじまり、報恩講におわると言われています)と言えることからして、簡略報恩講はまさに痛恨の極みであります。 

さて、報恩講は報恩謝徳の御仏事であるとも示されています。読んで字のごとく、恩に報いるということであります。親鸞聖人を始めとして、親鸞聖人に連なり、自らは聞法を尽くして、我々後世の人々のため、念仏の教えを聞く場をつくり、念仏の教えを営々として今日にまで伝えてくださった先達やご先祖様方にたいし、そのご恩に報いるということであります。 その恩に報いる報い方は、親鸞聖人や先達それに亡くなっていかれた先祖、つまり諸仏様方の願いである信心を得るということでありましよう。蓮如上人の御文に、さかんに見られますのが信心獲得というお言葉です。この信心獲得することこそが御恩に報いる最大の報い方であろうと思います。

正信偈には、
「本願名号正定業」 本願の名号すなわち南無阿弥陀仏の名号こそ真実の言葉となって、人が生きて往く道を正しく定めるはたらきをしています。 「至心信楽願為因」 至心信楽の願、すなわち第十八願の名号に込められた、真実に目覚ませようとのお心が、私たちのいのちの根源にはたらきかけ、呼び覚ますのです。とあります。

 つまり、愚かで、しかも自己中心的な生き方しかできず、迷いに迷っているこの私に、早くそのことに目覚めよと必死になってはたらきかけていてくださる本願の名号のお心に、正に早く目覚めて(これを信心獲得といいます)、本来の自分に帰らせていただいたことに無上の悦びをもって、「ありがとうございました」と頭を垂れて念仏もうす(これを報恩謝徳といいます)ことこそが、恩に報いるという報恩講の本来の意味合いではないかと思うのであります。

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