1. トップページ
  2. 教えるに触れる
  3. 過去の言葉
2021/9・10暁天講座
七月に勤修しました暁天講座の講師として大谷大学教授東舘紹見先生にご出講いただきました。当日の講演内容を抜粋して掲載させていただきます。

私は大谷大学で歴史のほうを担当しておりまして、今回もその方面からお話していければと思っております。
毎日の生活がないと我々の足場がないということになります。いつも忙しい忙しいと追われまして、どこに立っているのかわからない、右に行って左に行って、ああ分からんなんて感じで、今日も一日疲れたなあと気づいたら寝ていて毎日がすぎていきますけど、それが毎日の生活ということであり、まあ世間ということであります。でもこの世間ということは大事であります。私たちは何でも自分のものさしで見て、役にたつか意味があるかを全部考えています。自分の一生は自分の一生と割り切って、それだけという感じですね。

あとはどうなるか分からない、その代わりに自分が生きている間は自己責任でなんとか全うしなくてはならない、そんな感じでおります。だから自分のものさしでは生きていけないのが世間というところです。にもかかわらず毎日毎日私たちは世間を、何でも私の持っているものさしではかればいいと思っています。町の中で活動している、そういうこと自体が人間のものさしではかっているのです。私のものさしは、わたしに都合のいいものしか見えないのですから、見てないつもりでもあなたの都合のいいように見てしまう、そうではないのですかね。(中略)

普段は恥ずかしいことも忘れていることばかり、そういうことがありますね。普段本当に気付いているということは本当にないと思いますね。忙しい忙しいとそれを言い訳にして、一番大事なことに向き合うということを忘れていると思います。本当に光に照らされたときに、自分のものさしが相手を本当に傷つけていたと、いろんな意味で人や物を大事にしていなかったなと知らされてくるわけです。立派な人になるというよりむしろ自分が全然できなかったなと、本当に知らされるということがあるように思いますね。頭を下げるということは、「ごめんなさい」と言って頭を下げることはよくあります。それは自分の都合なんです。ものさしなんです。「ごめんなさい」というのがないと本当に「ありがとうございました」というのはないように思いますね。

その頭が下がるということがやっぱり光に出逢う、いのちと光に対して頭が下がるということであります。その頭が下がるということは、量ることの出来ない、いのちといのちからの光、それが大事なことです。それをインドの言葉で表すと、アミタ(阿弥陀)と言います。阿弥陀というのは量ることの出来ない、いのちと光ということです。南無というのは頭が下がるということです。あるいは意味にすると帰命ということです。帰命というのは本当に心の中から頭が下がるということです。自分の都合でしたりしなかったり、自分の利益がありそうな所だけに頭を下げたり、そういうものではなく、今生きている私が照らされることです。その時、おこることが帰命であります。南無の本当の働きのことを如と言います。如というのはそのままということです。

如から来て下さるので、仏さんのことを如来と言います。立っていて下さるのも、こちらに来て下さる姿を現しています。如来のことをインドの言葉で仏陀と言います。真理から来て下さった方である、南無阿弥陀仏とは何かというと、この世間の中で私たちも自己中心の毎日の生活の中で、いつでもいのちと光に照らされて頭が下がるということです。これがお念仏ということです。毎日の生活が無ければ、念仏もお寺もお内仏も何の意味もないですね。だけれどもこの毎日の生活の中で感じる、いのちと光に照らされて頭が下がる、そういう世間にあって世間を超えたものをいつでもいただける、世間の生活とはこういった大事な場所だと思っております。そしてこの南無阿弥陀仏に出逢うということが、親鸞聖人の一番の要、人生の要ということです。親鸞聖人のご生涯に聞くことの一番大事なことは、やっぱり毎日の生活ということがまず大事ということ。

だけども毎日の生活をものさしばかりで生きているということの中に、このものさしを破ってくださるはたらきがあるということが、大事だということであります。自分勝手なものさしをなくすことが出来ない私を、いつも照らして破ってくださるはたらきに出会っていたら、また本当に頭が下がるということが一回でも自分の中にあったならば、その体感が大事だということがわかります。それが世間の中で仏法をいただいて生きるということですよ。それをみなさんと一緒に確かめていかれた人が親鸞聖人だったわけです。

このページのトップへ