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2022/1新年
新年あけましておめでとうございます。一昨年来、新型コロナウイルス感染症の脅威にさらされたことでありました。

昨年一年間を振り返ってみましても、このウイルスに対する対策に翻弄されて来ました。

特に別院の行事におきましても、自粛による中止・時短・縮小等を余儀なくされ、ご門徒の皆様、崇敬のご寺院やそのご門徒の皆様、および関係してくださる方々に多大のご迷惑や我慢をしていただき誠に申し訳ございませんでした。この誌面をお借りして深くお詫びを申し上げることであります。
ただ、秋には感染状況も次第に減少傾向になりましたので、かなりの冒険ではありましたが報恩講の法要部分だけは例年通りのお勤めができましたことが唯一の慰めとなりました。ご協力いただきました皆様方に心から御礼申し上げます。

さて、この二年近くに及ぶ新型コロナ感染症に立ち向かってきました私たちには、いろんな問題が起こってきたり、恐怖におののくことも多々ありました。

例えば、問題といえば別院の行事をことごとく変更しなくてはならなくなりました。こども園の行事等も同じ破目になりました。
又、私ごとになりますが、自分は基礎疾患を抱えておりますので、感染したらどうしょうという不安で毎日を過ごしていました。
電車には極力乗らないようにし、感染対策も怠りなく戦々恐々とする毎日でありました。これは私だけでなく特に年配者はどなたもそうであったに違いありません。

このような恐怖心なるものは意識してもしなくても本能的に内心より起こってくるものです。その不安感や恐怖心に対して、別の方向からは「お前さん、それはコロナウイルスのせいなのかな?」という声が聞こえてくるのです。

よく考えてみると、コロナウイルスは別に人間に不安感や恐怖心を与えようとして、わるさをしているわけではないのです。つまり感染したくない、重症になりたくない、死にたくないという、私の内面にある欲心がそうさせるのではないでしょうか。

無明という言葉があります。無明とは、ことの「真実」の道理が見えない、見ることにうといということです。
こうしてみますと、

①決してコロナウイルスが不安感や恐怖心をもたらしているのではないということ、

②不安感や恐怖心をもたらすのは私の内面にある欲心であったと知らされることが真実であったのです。そこから逃げようとするわたくしに、仏さまからは弾丸のように、そのことに早く気づけ、早く目を覚ませと真っ向勝負を挑んでおってくださるのです。

仏法の教えを聞くことによって、その通りでありましたと真実にうなづくしか、不安感や恐怖心からのがれる道はないように思います。

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