1. トップページ
  2. 教えるに触れる
  3. 過去の言葉
2022/4待ちの保育
私の前職であった保育園を立ち上げてから二十年ほど経った頃のことである。
当時、日本の保育が新しい方向に変貌しようという兆しがあちこちに見られ始めていた時期である。

私は自分の園を何とかして新しい流れに乗り遅れまいと考えていたところ、山田桂子著『待ちの保育』という本にであいました。
これは静岡県島田市にある「たけのこ保育園」で行われている保育実践が紹介されています。その中身を概略紹介いたします。ここで描かれている泥んこの子どもたちのなんといきいきとしていることだろう。
三歳児も五歳児も、ここでは一日中、徹底的に遊ぶのです。保育園の先生と一緒になって、山や野をかけ回るのです。がけを滑りおりる。川でドジョウをとる。キイチゴを見つけて食べる。地面に鼻をこすりつけるかのようにして小さなクモの姿を追う。ゼロ歳児も、土手に腹ばいになって目の前のタンポポの花びらをむしってたべたりする。

これは子どもの伸びようとする内発的な力を信じ、その成長をじっくり待ち、わきからやさしく支えてあげる。このことが「待ち」の子育てであります。ここで重要なポイントが三つあります。

①「子どもの伸びようとする内発的な力」、
②「じっくり待つ」、
③「わきから支える」であります。

① 「こどもの伸びようとする内発的な力」をどう見抜いていくのか。これは内発的なものだけに目に見えるものではありません。子どもが何かに触発(心)されてすぐに行動(身)に移す。その姿のところにしか外からは見ることが出来ません。

② 「じっくり待つ」ことは忍耐がいります。だからこそ「待つ」のです。つまり〇〇をすれば必ず「内発する力」が出てくるというものではありません。「内発する力」とは、言いかえれば、今まで何度も言ってきたことですが、子どもが興味・関心に引かれ(触れ)て、自らの力でやってみようと発奮する力のことであります。

③ 「わきから支える」とは、子どもがさてやろうとしていることに対し、それをやらせないとか、他のことをやらせるというような裏切り行為をしないということであります。

さて、最も重要で最大のポイントは「内発する力を信ずる」の「信ずる」ということであります。ここで注意しておかなければならいことは、「子ども信ずる」と言いましても、言葉としては大変美徳さもあり決して非難されることではありません。しかしその美徳さの中には、何でもかんでも子どもの発言したこと、行ったことをすべて受け入れ、そのすべてを信ずるということが美徳なのではありません。だって残念なことですが、子どもは嘘もつきますし、あらぬ行為もしてしまいます。それらをすべて信じなさいというのではなく、ここでいう「信ずる」とは、子ども(大人もそうですが)が生まれながらにして与(あた)わっている、「伸びようとする内発的な力」が間違いなく子どもの内心に備わっていて、その力こそが子どもを本来的に生かせている唯一のものだと、しかと「信ずる」ことであります。

ここで、教育保育や家庭での子育てに関して大きな疑問が生じないでしょうか。つまり子育て環境および保育現場での環境の問題です。たけのこ保育園のような自然豊かな環境を都会で望むのは不可能な話です。たけのこ保育園の保育形態をそのまま真似することは都会では無理なことです。ならば、都会生活の中で「待ち」の子育てはどのようにすれば可能なのか。それは「待ちの保育」の原理ともいうべきものを理解することであります。つまり「待ちの保育」の原理とは、「待つ」ことによって子どもの内心から、子ども自身が伸びようとする内発的な力を奮い立たせることであります。この原理に忠実に従えば、自然が極端に少ない都会であろうと他のどこであろうとも、保育形態がどうであろうとも、「待ち」の保育が出来るはずです。

さて、真宗の教えでは、「信心」「信ずる」ということが最も大切で、われわれに願わ「信ずる」ことは人間の内心の行為でありまして、有難いことに人はだれしも生まれながらにしてこの「信ずる」ことの出来る素養を平等に与わっています。この内心の行為である「信ずる」とはどういうことでしょうか。
動物は他の動物を餌食にしても弁解はしません。本能的に自己防衛の垣根はつくりますが、心の垣根は造らないからです。人間はあらゆる知識をすべて自己防御のために、理論武装をし、言いわけの材料にし、自己正当化というかたちで自分を護ろうとします。つまり人間は誠に不誠実で不真実極まりない生きざまをしています。その生きざまが、仏法を聴聞し仏の真実の光に触れると、内心の行為として慚愧の心が生まれます。慚愧の心とは、「申しわけない」ということで、言いわけ無用ということであります。この「申しわけない」という慚愧の心が、さらにさらにもっともっと深化されることによって、仏さまを「信じる」という内心の行為としての信心が与わるのです。しかし注意をしておかねばならないことは、真宗では信心をするとは言いません。

信心は仏さまから戴く、頂戴するものであると言います。つまり内心の行為である「信ずる」ことが、慚愧の心がさらにさらに深化されることによって、私が「信じる」信心が仏さまから戴く信心に轉じていくのです。
慚愧の心を本気で持ち続けられるような生命感覚こそ、人間回復の原点であると真宗では教えられています。

このページのトップへ