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- 2022/8我が身を深く悲しむ心に 仏法のことばが響く
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過日久しぶりに何人かで温泉旅行に行ってきました。コロナによる制限も緩和された直後だったので、感染対策はしっかりしながらも心置きなく出かけました。我々が案内された夕食の部屋の隣では、すでに二十数名の若い男女の団体が宴会をされていました。結構声高に騒いでおられたようであります。その団体さんの宴会は先に終わって、我々はしばしの間静かな夕食をさせてもらいました。
食事がおわって部屋に帰る途中にカラオケボックスがあり、先ほどの若い団体が貸切りで楽しんでおられたようです。かなり大きくにぎやかな声が廊下にまで漏れ聞こえていました。寝る前に風呂に行くのにその場所を通ると、カラオケボックスの隣にラーメンの店があって、例の若者客がまたしてもラーメンの店で立ち回って大はしゃぎの様子でした。もちろんマスクなどは誰一人していません。
その様子を見て我がグループの人は一様にこんなことを言っていました。「マスクもせずにどうもないのかな」「ああいう中で感染が広まるのやな」「ああいう若い連中がおるからなかなか感染がおさまらないのやで」等々の言葉が出てきました。こちらは風呂に行くのもマスクを着けているのにという思いもあるのでしょうか。私自身も一緒になって同じ批判をし、同じ思いを抱いたことでした。一瞬ふと我に返って若者たちへの批判、こちらはちゃんとマスクを着けているのにと言う、いわば慢心ともいえるものをふと感じたのです。しかしその時他の人を批判した、悪口を言ったという思いは少しもありませんでした。寝床に入ってから、寝付かれないままに先ほどの光景をふと思い出しました。
よくよく考えてみると、若者たちだって言い分があるはずです。久しぶりにコロナから開放され、長い間待ちに待った旅行であり宴会だったことでしょう。そういう若者たちの気持ちも察せず一方的に批判し悪口を言った自分に少々後ろめたい気持ちや悲しい思いをしたことでした。
しかし、表題の法語で言われている「悲しむ心」とは、そんな薄っぺらい「悲しさ」をおっしゃっているのではないようです。この程度の悲しさとか反省ではないはずです。なぜならそこには「仏法のことばが(少しも)響く」ことが私にはなかったからです。私たちは仏法を聞く身です。仏法によって救われたいと願っています。にもかかわらず「仏法のことばが響く」ことが無いのです。常に仏法を聞いているにもかかわらずです。このことが実は「悲しい」のです。いくら聞いても仏法のことばが響かないこと、そのことが本当の悲しさなのでしょう。この法語は、いくら聞いても聞いても「仏法のことばが響く」ことがないこの「我が身を深く悲しむ心」にこそ、「仏法のことばが響く」のだとおっしゃってくださっているのだと思います。
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