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2019/5賢者の信を聞きて、愚禿が心を顕す。
賢者の信を聞きて、愚禿が心を顕す。
賢者の信は、内は賢にして外は愚なり
愚禿が心は、内は愚にして外は賢なり


 前々月三月号では、『唯信鈔文意』の中で親鸞聖人が解説されている善導大師のお言葉を紹介致しましたが、それとよく似た文言で、右記の表題のことばを今月は取り上げてみます。
 この文言は親鸞聖人の著作によります『愚禿鈔』に出ています。 (訳文)賢い方々の信仰のあり様をうかがって、愚かで罪深い私の心を明らかにしましょう。
       賢い方々の信仰は、内は賢明で外からみると愚のように見えます。
       わたくしの心は、内は愚であって、外には賢明を装っています。

 賢い方々とは、七高僧やそのお一人である法然上人を指しますが、親鸞聖人にとっては法然上人のことでしょう。愚禿とは親鸞聖人がご自身の名前となさったことばですが、ここでは私自身と受け止めましょう。

 「我々はみんな『私』ということを中心に生きているけれども、その私の始末がつかない」(平野 修) 平野先生がおっしゃる「私のしまつがつかない」とは一体どういうことでしょう。

 私たちは、自己中心主義という病を抱えて生きていて、そのこと自体に気づかずして日常を過ごしています。表題の文言では、仏さまの心をあきらかに体得し信心を得た人を賢者と示されていますが、それに対し仏さまの心をほんのちょっとしかわからないにもかかわらず、わかったように装っておるものを愚か者というのでしょう。少し学んだ、少し知ったということが、いつのまにか自慢の種になってしまう。学んだり知ったりすることは、決して自慢するためではなかったはずなのに、気がついてみると自慢の種になってしまっている。それが私の「内」なのであり、「愚」といわざるを得ないものです。このことがしまつがつかない中身ではないでしょうか。人はすぐにひらきなおってしまいます。「どうせわたしなんか聞いたって・・・」と。我々が努力せずに簡単になれるのは、「どうせ私なんか・・・・」という私です。賢者(善知識)又はご本願に遇うことでしか「内なる愚」は見えてこないのだと思います。南無阿弥陀仏。なむあみだぶつ。 南無阿弥陀佛(輪番)

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