1. トップページ
  2. 教えるに触れる
  3. 過去の言葉
2023/3慶讃法要
二〇二三年三月。いよいよ慶讃法要が本山で厳修されます。親鸞聖人がこの日本にお生まれになって八百五十年、人が生きていくよりどころとなる宗(本願)と体(仏の名号)を顕かにされて八百年になります。

親鸞聖人は、その九十年の御一生を尽くして、釈尊が明らかにされた浄土という世界とそこに生きる人々の本当の姿を願われ、正信偈や御和讃などを著されました。
『教行信証』の真佛土巻には、次のように記されています。

謹んで真仏土を案ずれば、仏はすなわち不可思議光如来、土はまたこれ無量光明土なり。しかれば、すなわち大悲の誓願に酬報するがゆえに、真の報仏土と曰うなり。(『真宗聖典』 三〇〇頁)

私たちは、いのちには限りがあると感じています。また、他者と比べて自分自身の価値を疑う心があります。そこに孤独感や悲しさを感じるのです。本当にそうなのでしょうか。病気や死から逃れ、長生きをし、他者よりも優れたものにならなければ幸せではないのでしょうか。

二千五百年前の釈尊も、八百五十年前の親鸞聖人もそうではありませんでした。
自分の生き方がはっきりしていました。戦争や飢餓によって世の中が荒れ、民衆が苦しんでいた時であっても、疲れることなく、歩みつづけられました。何故そのようないのちを生きることができたのでしょうか。

南無阿弥陀仏というまことの言葉に出遇って真実を生きる身となったからです。
南無阿弥陀仏は、無量のいのちに目覚めてくれとはたらく智慧の光明です。その自覚に導く本願の世界です。この光に出遇い、本願に触れたとき、私のいのちは一変します。

慶讃法要を機縁として、親鸞聖人の御徳を讃嘆し、私が人と生まれたことの意味を明らかにしていきたいと願います。

このページのトップへ